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広島カープの監督を語れ!緒方監督の采配はどう?

 
carp
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さあ12球団野球ブロガーと名乗っているひらっちと申します(笑)先日は巨人と阪神の監督について語らせて頂きましたー!

さて今回は久々の広島編です(笑)、やっぱり今シーズンの順位予想を広島を1位に予想されている方は多いですよね?今年やったらV3ですよ。もし達成されたなら

緒方監督は名将と今後語られるかもしれまんせん。これはカープの歴史を含めても凄いことではないでしょうか?FAとういうシステムを導入後育てても育てても各球団に移籍してしまって戦力の底上げができずにいたカープですが、一体どうやってこのような強いチームに生まれ変わらせたのか、歴史も含めて振り返りたいと思います。

広島東洋カープの創設は1950年から今年で68年目になります。

広島東洋カープの創設は1950年になりますが、戦前から名門校は多く、大スター藤村富美男、鶴岡一人、白石勝巳など、後に各球団の監督になる

選手を多数輩出していました。ブラックベア、レインボー、ピジョン、カープなど多数の候補の中から鯉(出世魚)が選ばれましてカープという名前になりました。

創設当初から金銭的苦労が絶えず、いつ身売りしてもおかしくなかった状態らしいです。

初代 石本秀一時代(1950年 ~ 1953年 )

1950年当初、様々な球団を渡り歩いた石本監督が就任したが集金活動で忙しく実質は白石勝巳助監督が監督して指揮する事が多かったそうです。その白石選手がベストナインを獲得するも勝率は.299と3割にも満たず最下位(8位)になります。新人で獲得した長谷川良平投手は353回も投げてフル回転していたそうです。

51年も7位、52年6位と徐々に順位は上げてはきていたものの、元々寄せ集めで野球の素人を集めてやっていたそうです。徐々に他のチームから有望な選手を集めチーム改革を行っていきます。

2代目 白石勝巳監督時代(1953年〜1960年)

石本監督時代からスター選手として活動していた白石選手が1953年シーズン途中から監督に就任。

コーチが全くいない状態だったらしいので、白石監督が選手をスカウトしていたらしいです。

この頃になると財政事情はだいぶ明るくなってみたいです。順位も4位に上がってきます。

ただ、優勝争いできるチームには程遠かったみたいです。長谷川良平投手がエースとして活躍30勝を上げる年もあったそうです。

1957年に遂に広島市民球場ができます!!観客動員数が増えて財政的にもゆとりが出てきたそうです。

1958,1959年あたりは新人獲得とトレードなどが活発になり平均年齢が22歳と若いチームを形成し、1960年代に突入します。

チームの地固めはできたと白石監督が1960年に退任します。

3代目 門前 真佐人監督時代(1961年~1962年)

後の名将となる古葉竹識選手を育てた監督らしいです。成績は振るわず2年連続5位で終わってしまいます。

4代目 白石勝巳監督時代(1963年〜1965年)

元々は強打者として鳴らした小鶴誠氏を監督して招聘する予定だったそうですが、また白石監督が就任します。

1964年に大活躍した王貞治選手の対策として王シフトを考案したそうです。ただ順位は6,4,5位と振るいませんでした。

衣笠祥雄捕手から内野手に転向させたりしていました。

5代目 長谷川良平監督(1965年〜1967年)

広島のエースとして君臨していた長谷川選手が監督に就任します。

も4位、6位と成績が振るわず根本陸夫氏が監督に就任。

6代目 根本陸夫監督(1968年〜1972年)

この頃に名称が広島東洋カープに変更。大打者の山内一弘選手を獲得し、外木場、安仁屋投手の活躍で遂に念願の3位に浮上!!

18年連続Bクラスは当時の記録で今でもセリーグワースト記録だそうです。この時代のカープは猛練習で有名だったそうです。

この時代にカープの文化の1つである練習をするチームという基礎が作られたのかもしれません。

根本氏といえば今後監督就任10年以内に広島、西武、ダイエーを黄金期にしていった寝業師と言われています。(笑)

7代目 森永勝也監督代行(1972年6月30日〜オフまで)

1972年は途中で森永勝也コーチが代行として指揮、この間に衣笠、山本浩二、三村、水谷実雄など後の赤ヘル黄金期のメンバーを育成。

8代目 別当薫監督(1973年)

現役時代はスター選手として名を馳せた別当監督ですが、チームは最下位に沈んでしまいます。

ただし最下位でも1位と6ゲーム差と混戦のシーズンでした。選手を着実に育てていっていたシーズンでした。

9代目 森永勝也監督(1974年)

二軍監督を経て2度目の就任ですが最下位に終わってしまいます。コーチ同士の確執をうまく仲裁に入れなかったりしたそうです。

10代目 ジョー・ルーツ監督(1975年4月30日まで)

広島初の外国人監督でコーチからの昇進になりましたが、試合中のボイコットなどを起こし15試合で辞任してしまいます。

チームカラーを赤にしたり、広島カープの文化を作ってくれた人でもあります。

11代目 野崎泰一監督代行(1975年5月2日まで)

その後監督代行として指揮、その後古葉氏に監督を引き継ぎ、自身は二軍監督、フロント業をその後勤めます。

12代目 古葉竹識監督(1975年〜1985年)

野崎監督を引き継ぎ5月3日から監督となり赤ヘル旋風を巻き起こしカープの初優勝に貢献します。

山本浩二、衣笠コンビに外木場、大下などが活躍。1976年には池谷1977年には高橋里と3年連続で最多勝投手を輩出。

1978年山本浩二、衣笠、ライトル、ギャレットでカープ史上最大の破壊力のある打線を形成しました。

1979年は高橋慶や江夏の活躍で2度目の優勝。江夏の21球は今でも語り継がれていますよね!!

そして1980年は二年連続でリーグ制覇を成し遂げてしまいます。1980年代は北別府や大野、津田、川口などが台頭1970年代とはまた違った選手が活躍し、小林、小早川が活躍し1984年に4年ぶりにリーグ制覇を成し遂げます。。1985年勇退します。広島史上最高の監督して称えられています。

13代目 阿南準郎監督(1986年〜1988年)

当時は山本浩二までの繋ぎの監督と言われていたらしいです。当時の広島は戦力が揃っていて就任1年目から優勝を成し遂げてしまいます。

この頃のエースは北別府氏でした。この頃長年赤ヘル打線を支えた山本浩二と衣笠が引退し、長打力不足に悩まされてしまいます。

その代わり、正田の台頭など渋めの選手が活躍していました。

14代目 山本浩二監督(1989年〜1993年)

満を持してミスター赤ヘルこと山本浩二氏が監督に就任。この頃は北別府、川口、大野が全盛期で投高打低の時代でしたが

バッターは正田に引き続き野村が盗塁王を獲るなどスピード感のある野球を追求。佐々岡の入団などもあり自慢の投手力で1991年に念願の優勝を達成します。この頃津田の急死などのダメージもあり1993年は最下位に沈み、長年投手を支えた捕手達川が引退。山本浩二監督も責任を取って辞任します。1991年頃から後にクリーンナップを組む前田と江藤がレギュラーに定着します。

15代目 三村敏之監督(1994年〜1998年)

この頃になると山本監督時代に控えだった金本、西山、緒方、音などがレギュラーに定着。投手陣は紀藤を中心とした投手陣を形成するも

層が薄く、毎年新人に頼る状態が続きます。この頃の広島はチーム打率.281を記録するなど打高投低で赤ヘル打線に迫力があり、トリプルスリーを達成しそうな選手がズラリと並んでいました。5年目で初のBクラスを記録し退任。

16代目 達川光男監督(1999年〜2000年)

この頃になると投手陣、打撃陣も低調になりその後の暗黒時代の兆候が見え始めてしまいます。

チームの4番として長年君臨してきた江藤が巨人に移籍。わずか2年で退任します。

17代目 山本浩二監督(2001年〜2005年)

低迷してしまったチームを復活させるべく就任したが、投手陣が一向に良くならず、打者の中心であった金本までも阪神に移籍してしまいます。

新井や嶋、栗原などを育てたが、5年連続Bクラスと上位に浮上する事はありませんでした。野村謙二郎もこの頃引退。

18代目 マーティ・ブラウン監督(2006年〜2009年)

1993年頃野手として在籍していたブラウンが監督に就任。ベース投げなどパフォーマンスは世間に注目されましたが

長年低迷したチームが浮上する事はありませんでした。この頃は投手は黒田、打線は新井・前田が中心となり引っ張っていましたが

黒田は大リーグ、新井は阪神に移籍してしまう。選手層の薄さはFAで出ていった選手を埋めれずBクラスに。

後にレンジャースで活躍するコビールイスなどが活躍しました。緒方孝市が引退。

19代目 野村謙二郎監督(2010年〜2014年)

現役時代トリプルスリーや盗塁王を獲得しチームリーダーだったノムケンこと野村氏が監督に就任。

チームの再建を託されますが、投手陣の崩壊などなかなか結果が出ず2年連続の5位と低迷します。

この時期は前田健太投手が台頭、若手だと丸選手などを育成しました。走る赤ヘル野球と俊足の選手をたくさん起用し、海外で臨時コーチを務めた経験から外国人とも積極的にコミュニケーションを図っていました。

2013年は遂にAクラスになりその後の常勝チームの基盤を作り上げた監督して後々称えられています。

20代目 緒方孝市監督(2015年〜)

野村監督からバトンタッチを受けてコーチから昇格します。一年目は黒田の復帰で優勝かと期待が膨らみましたがリリーフ陣が崩壊してしまい、新人の野間を積極的に起用するなど走れるチームを印象付けましたが4位に終わってしまいます。2016年は前田健太が大リーグ挑戦で厳しいとの声もありましたが新井が復帰し、ベテランと若手がうまく絡み合い圧倒的な強さで優勝をしてしまいます。

この頃は外国人が当たり、投手ではジョンソン、打者ではエルドレッドが中核を担います。新井の復調、鈴木誠也の覚醒もありました。

2017年は薮田や岡田が台頭し、2年連続のリーグ制覇を成し遂げてしまいます。

まとめ

いかがでしたでしょうか?

1950年代-1960年代はチームカラーも決まっておらず、経営するのもやっという状態の中広島市民球場が誕生します。

1970年代は根本監督がチームの基盤を作りそれが1975年に実り10年程黄金時代が突入します。

1980年代は安定した投手陣でセリーグを引っ張っていく存在になります。

1990年代は打線は好調でしたが投手陣が崩壊し、FA制度ができたあたりから育成した選手が外に出ていってしまう流れができてしまい

2000年代の低迷に繋がってしまいますが、ここから育成とドラフトに力を入れ、地元愛をコンセプトに伝統あるカープの文化を取り戻した感がある

2010年代後半ですね。

歴史を辿ってみると、チーム文化を作るまでに四苦八苦しますが、その苦労が実って黄金時代を形成するというのが広島野球の特徴みたいですね。

今の広島野球は1980年代を参考にした投手陣の形成、1990年代を参考にした打撃、守備陣の形成がルーツにあるのかなと思われます。

やはり過去の古き良き伝統というのは大事なのかもしれませんね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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