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巨人FA補強歴代選手は?成功より失敗が多く取り過ぎで使い捨ての末路が悲惨?長嶋監督時代編

 
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こんにちはー!12球団のプロ野球を中心にブログを書いているひらっちと申します。さてさて2018年ストーブリーグもいよいよ大詰めの時期に入り、オリックス西投手と広島丸選手の動向が注目を集めていますが、1993年から始まったFA(フリーエージェント)制度、度重なる移籍、ドラマや成功、失敗を巨人ファンとして見てきました。正直やり過ぎじゃないかと思う時期もありましたが、どの選手が活躍し、どの選手が活躍できず巨人を去って行ったかなど歴代の選手をどの監督の時代を含めて、語っていきたいと思いますので宜しくお願いします!!今回は長嶋監督編です。

1993年~2001年長嶋監督時代は巨人の時代、4番打者をたくさん獲得!

藤田監督から長嶋監督にバトンタッチしたのが1993年でこの年のオフからFA制度というのが始まりました。

藤田監督は投手出身、長嶋監督は野手出身な為、どういうチームを作るのが理想かというのがかけ離れていました。

藤田監督時代は高卒の投手を抜擢するのに長けていて斎藤雅樹投手を大エースに仕立て上げたのが大きな功績で

桑田、槙原と先発3本柱を確立し木田、香田、宮本などの若手投手も台頭させました。捕手も村田真一と西武から移籍してきた大久保を抜擢し、センターラインを作り上げました。

その基盤があったのでどちらかというと投高打低なチームでしたが、長嶋時代になるとドラフトとFAで多数の選手を獲得する方向にシフトチェンジしていきます。

落合博満(1994-1996年)

持ち前のカリスマ性でたくさんの選手を惹きつける能力に長けていたので、1993年には中日から3度の3冠王を獲得した落合博満選手を獲得しました。来た時は既に40歳を超えて峠を過ぎていましたが、在籍3年間で2度の3割と1994年、1996年の優勝にも貢献してくれたのでFA選手としては成功の部類に入るでしょう。その後日ハムに移籍し2年で引退。その後解説者や臨時コーチを経て中日の監督を8年間指揮し4度のリーグ優勝に導きました

広沢克己(1995-1999年)

しかし1994年オフにヤクルトの不動の4番として活躍していた広沢克己選手を獲得も落合とポジションが被っていた為、不慣れなレフトを守らされ、守備のまずさを露呈。巨人のプレッシャーにも負けたのか.240 20本塁打と本来のポテンシャルを発揮できず、最終的にはその後たくさんの4番打者獲得した選手との競争に負け、スタメンから外されてしまい、5年間で目立った成績をあげることができませんでした。その後阪神に移籍し、阪神のコーチや解説者として活動しています。

川口和久(1995-1998年)

広島カープ時代は7度の二桁勝利を挙げ、3度の奪三振王に加え北別府、大野と黄金時代を作ったサウスポー川口和久投手を同年1994年オフに獲得するも既に峠を過ぎており、急造でストッパーとして(当時長嶋監督がレフティーズと命名)1996年の優勝に貢献するも目立った成績をあげる事ができず、1998年に静かに引退し、その後は巨人の投手コーチとして原ジャイアンツを支えました

河野博文(1996-1999年)

日本ハム時代は左の先発投手として活躍最優秀防御率のタイトルも獲得していましたが、二桁勝利は一度もなく、さほど期待はされていませんでした。最初は先発投手で考えていたようです。しかしそこで活躍ができず中継ぎに転向、そこで適性を見せ1996年のメークドラマの立役者として39試合で6勝1敗3Sの最優秀中継ぎ投手のタイトルを獲得!川口、宮本らとレフティーズを形成。長嶋監督からは北京原人に似ている風貌からゲンちゃんというあだ名で可愛がられていました。その後は若手投手の台頭などもあり出場機会が減り、ロッテに移籍!2000年で現役引退をし、今は農業を営んでいて玉ねぎゲンちゃんという玉ねぎを長嶋監督から買ってもらっているなど関係はまだ続いているようです。

清原和博(1997-2005年)

甲子園の大スター、そして西武の不動の4番打者として西武ライオンズを8度の優勝に導き、あり余る才能を発揮していた清原選手でしたが、FA制度が始まって以降、西武ライオンズは石毛、工藤などベテラン選手の流出が顕著になってきました。そして清原もその流れに乗ってしまったのか元々憧れていた巨人軍に入団します。大スターだったので3割40本を期待されるなどのプレッシャーに負けてしまい、移籍1年目は.249と4番打者としては低打率に終わってしまい大バッシングを浴びてしまいます。その後バットを短くもってコンパクトにしたり様々な試行錯誤を繰り返しますが結果が出ず、最終的には肉体改造に踏み切ります。しかしその代償で怪我がちになってしまい、1999-2000年は常時出場が難しい状態でした。2001年は一年発起し自己最多の121打点を記録するなど復活を果たし、5年契約を勝ち取りますが、怪我がちな体は改善されず、2001年以上が巨人でのキャリアハイになってしまいます。特に堀内監督が就任した2004年以降はペタジーニとの競争にも負け、巨人から戦力外通告を受けてしまい、9年間在籍するも期待外れという声が大きかったようです。そして2006年はオリックスに移籍、3年間在籍後引退。タレント業や解説者をしていましたが、何故か覚せい剤に手を染めてしまい逮捕。野球人生を棒に振ってしまいます。

工藤公康(2000~2005年)

西武時代は13年間で11度の優勝に貢献、その後FA移籍し弱小ダイエーを立て直し5年後にリーグ優勝も達成。2度目のFAは優勝請負人として巨人に入団を果たします。

この頃は阪神からダレル・メイ高橋尚成とともに左投手王国を形成。12勝5敗と期待通りの成績で2000年の巨人の優勝に貢献!2001年は怪我で離脱も2002年以降は安定した成績を収め、原ジャイアンツでも2002年に優勝に貢献。堀内監督時代の2004-2005年もも2度の二桁勝利をマーク。門倉投手の人的補償で2007年横浜に移籍、その後西武で29年間の野球生活に終止符を打ちます。巨人時代は在籍7年間で2度の優勝に貢献!通算224勝はここ30年間の投手では最多。

その後ソフトバンクの監督としても3度の日本一に輝くなど手腕を発揮。勝つことに関しては今プロ野球界で一番知り尽くしている人物ではないでしょうか?

江藤智(2000~2005年)

長嶋監督時代最後の目玉が広島不動の4番であった江藤智選手の獲得ではなかったでしょうか?

広島時代は1991年からレギュラーに定着し1999年まで二度の本塁打王打点王を獲得し、赤ヘル打線の中核として実力を発揮していましたが、広島のスパルタ練習に嫌気が差したのか?実績を残した末巨人に移籍、ミスターから背番号33を譲り受けるなど好待遇で向かい入れられました。移籍当初は持ち前のパンチ力を発揮し、2年連続30本塁打をマークするなどし2000年の優勝に貢献します。しかし原監督が就任した2002年あたりから成績が下降しはじめ、小久保を獲得した2004年からは完全にサードのポジションを奪われてしまい、2005年を最後にジャイアンツから去ることになります。

その後西武に移籍し指名打者や代打として活躍し2009年に現役引退。その後は巨人の一軍、二軍打撃コーチ、三軍監督などを歴任しています

誰が一番貢献度が高かった?ファンの印象に残っているのは?

FAで獲得したのは過去4番を打っていた落合、広沢、清原、江藤、サウスポー不足だったため川口、河野、工藤とふり返ってみると巨人のウィークポイントを補強はしていましたが、同じタイプの選手ばかりを集めてしまった為、打線が線ではなく点になっているなど酷評された時代もありました。一番活躍したのは落合博満選手と工藤公康選手ではなかったでしょうか?やはりこの2人はこれぞプロというここぞという時の活躍と安定した成績でしたし頼りになりました。やはり頼りがいのある選手というのが巨人で活躍する為の評価ポイントなのかもしれません。

ただ巨人は競争が激しかったり、既に落ち気味の選手を獲得したりするので選手としてのピークは過ぎているパターンが多いので過度な期待を持たれるのは大変でしょう。清原のように20代前半がピークだったけどファンの中では西武時代に活躍した4番像と落合以上の結果を求められていたのかもしれません。実力以上に人気がある選手は叩かれる風潮がその後原監督時代に獲得した選手にも引き継がれています。

まとめ

当時は広沢、清原、川口、河野は何で獲得したのか疑問に思っていましたが、今となってみると単年では結果を出している年もあるので周りの期待値が高すぎただけかもしれませんね。ただ、この長嶋時代に行った失敗点を反面教師として原監督が引き継いでいけたのか次回はそれも見ていきたいと思います。

巨人FA補強獲得歴代過去の選手は?成功より失敗が多く末路が悲惨でその後は?原監督時代編

 

 

 

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